《「信仰」「スピリチュアル」「修行」、人達はそれらを
「信じる」事によって「幸福」や「救い」「成功」を
「手に入れよう」としているのです。》
それは「信じる者こそ救われる」であり「信じた者だけ救
われる」とも言えます。よって「信仰、スピリチュアル、
各種の修行」全てが、「幸福、救い」又は「成功の方法」
を古来から「絶えず追求」してきた訳で、これを
《言い方を変えれば、それら全ては「普通の人達」に
「信じて」頂かなければ、もはや「成立しない」のだ、
とも言えます。》
だからこそ、絶えず誰もが「納得出来る何か」を追求して
いるのです。
《よって、その「肝心の方法論」を「綺麗な言葉」で包み
「誤魔化し」、抽象的な表現で「論点をズラす」行ないが
ある場合、それは「明確に偽物」と断言しても良いと言える
のです。》
その一方で「一つの事実」として「信仰」や「修行」を長ら
く「続けていなくても」、ある「きっかけ」や、その人独自
の「素質、センス」によって「いっときの覚醒」を得る人も
居るわけです。つまり「いっとき」において、やたらと
「冴えている人」「乗っている人」が居るのも事実なのです。
その場合「特定の信じるもの」が有りませんから、現代なら
「スピリチュアル系」に成るかと思われます。
《ここで「いっとき」と何度も表現しましたが、悲しいかな
その「冴え」も「乗り」も「バイオリズム」と同じで「期間
限定」の性質を持ちますから、そんな人が「何十年」も長く
「続いた」試しは無いのです。》
つまりは「本能的センス」ですから、所詮は「手前みそ」
です。それなりの事が分かった人なら、必ずそれを「察知」
して、自ら進んで「信仰」か「修行」の門を叩いて、これ
まで得たものの「確信」と「崩れない未来」を担保したく
なる筈でしょう。
《最後に、それが「どんな道」であっても、それなりに
「覚悟」し「覚醒」を得た者ならば、ちゃんと正しく「悟」
べき物事には「順番」が有るということです。これは不思議
に全く違う「ジャンル」であっても、同じ様な事が分かる
ように出来ています。》
《これは、どの様な「修行、道」を「歩んで」いたとしても、
「登るべき山」「知るべき事実」は「一つ」、という言葉に
集約されています。》
これは、「同じ道」でも「一流」と「三流」では「言葉」が
通じない、でも「違う道」を歩んでいても、同じ「一流同士」
では「言葉」が通じる。このことを表しています。
「賢い馬鹿」は「単純、シンプル」な物事を「ワザと難しく」
語るとも言えます。でも、「真の一流」であれば「誰にでも
解る言葉」を使う、ということです。そうではないですか?
更に、続けていきましょう!!
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