そして「お釈迦様」は「35歳」の時の「12月8日」ついに
「仏の悟り」を開かれることになります。「無所有処」の
思想を飛び越え、一切を本来は無と感ずる事によって心の
安静を得て「輪廻」の濁流をも越え、欲望、苦悩を死滅
させる。シッダールタの得た「悟り」は、全て「閃き」の
中で得たもので、言葉ではとても表現出来ないものでした。
このシッダールタの正覚を「正道」と言い「四諦八正道」
「十二因縁」と言います。
さて、今回の講義の「テーマ」の締め括りは、この
《言葉ではとても表現出来ない「悟りの感覚」です。》
「仏教」には「分別知」「無分別智」と言う言葉があります。
《「般若心経」はこの「無分別智」を説いており、多くの
仏教宗派が、この「般若心経」を中心的に尊重しています。
この「般若」も文字自体には意味は無く、プラジニューの
事で「無分別智」という意味なのです。》
《「分別知」とは「分別」の言葉の通り、分別する事で
生まれる知のことです。よって我々が通常使う「知、知る」
事は全てが「分別知」となります。》
仏教では《煩悩は分別により生まれ、分別は言葉による
「戯論」により生まれる》と説かれます。我々の世界は
「言葉」により虚構され、その虚構により自己の所有に
対する固執が生ずる。他と比較して優れた他に対する
劣等感や、劣った 他に対する優劣感を抱く、よって
「分別」から「煩悩」が生じる。
《人は「善悪」等の分別なしでは生きられないが、その
分別により苦悩する。分別の本質を明らかにして、その
固執を解けば「智慧の世界」が開かれる。それを分別を
越えた「智慧」すなわち「無分別智」という。》
「無分別智」とは分別の無い世界ではなく、分別の本質
を知見し、分別が差し障りとならなくなる世界を指し
ます。よって「無分別智」は「分別」していく中で
「生まれる」ものであって「分別知」とは「矛盾」する
ものとなるのです。》
ここ迄を、更に「砕いた表現」で表すと「分別知」とは
他の人達との「議論」等の関わりにより生じる「常識」
であり、「無分別智」とは「予感、勘、直感」又は
「プレッシャー」の様な、他の人から「何で?」と聞か
れたとしても「いや!何となくそう思った」としか答え
様が無いもの、だけど当人にとっては確信のあるもの、
更には「人と握手する時」に生じる「よろしくね!」と
いう「共感性」も「言葉」には変え難いものですから、
そうだと捉えて頂いても良いと思います。
ですから、ある意味「常識」という取りようにおいて、
「分別知」により認識された「善、悪、生、死」その
全ては「精神感覚認識」の「無分別智」では否定され、
実体性も否定されます。「善、悪、生、死」それらを
《「直覚」していく「智慧」ですから「知」ではなく
「智」となる訳で、「無分別智」のことを「根本智)
とも「実智」とも言い、それが「般若=プラジュニャ」
ともいうのです。》
「無分別智」の境地とは、分別を本質とした「言葉」を
超えているから「不思議」なのだ、と言われるのです。
更に、続けていきましょう!!
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